「咸臨丸子孫の会」は、幕末に活躍した咸臨丸の乗組員子孫を正会員、咸臨丸やその歴史に関心のある研究者や学芸員、作家などを特別会員として、1994年に発足しました。
子孫の会は、会員相互の親睦をはかるとともに咸臨丸の史実を正しく伝えることを目的として、ゆかりの地の訪問や関連の催しへの参加・協力、講演会活動などを活発に行っています。
詳しくはホームページ(http://kanrin-maru.org/)をご覧下さい
私自身は、曽祖父である齊藤留蔵(後に森田留蔵)が太平洋横断時の咸臨丸に乗船していたことから、2003年に正会員として入会させて頂きました。
齊藤留蔵は1844年、壬生藩士齊藤佐左衛門の四男として誕生。11歳で江川太郎左衛門の「韮山塾」に進学します。
16歳で最年少乗組員として咸臨丸に乗船。身分は軍艦奉行・木村摂津守の従者、そして鼓手の役割も担っていました。
帰国後、江川家の重臣・森田貞吉の養子となり、名を森田留蔵と改めます。そして幕府の砲術方教授などを務めていましたが、明治維新で武士を失職。しばらく韮山町で農業をしていたようです。
その後明治政府の要請で海軍に入り、「岩倉具視使節団」の留学生として渡米。ニューヨークの海軍兵学校に入学しました。
2年半の留学を終えて帰国した留蔵は海軍に辞表を提出し、自費でアメリカに留学。牧畜技術などを学んで4年後に帰国して後、韮山で有志と共に日本初の牧羊場を開きます。漸く経営が軌道に乗ってきた頃、気候に祟られ羊に寄生虫が発生し次々病死。場所を伊豆山に移し挑戦を続けましたが苦難の連続で、財産を投げ打っての10余年の奮闘の甲斐なく牧場経営は失敗。その後は歴史の表舞台から姿を消し、1917年に宇都宮で亡くなりました。
留蔵の末娘であった父方の祖母は、幼い私によく若き留蔵の話をしてくれ、私は留蔵のように志を持って生きたいと思ったものです。しかし、牧羊場を失敗して以後亡くなるまでの話は聞かせて貰っていません。資料も散逸し、今となって知ることは容易ではありませんが、どこかで留蔵のその後をご存知の方と出会えることを願っています。
子孫の会の会員になってから、激動の幕末に熱い志を持って生き、志に散った方々について、あまりにも自分が無知であるということを改めて痛感しています。
その方々の志を知り、学び、繋いでいくことは、この混迷の現代に生きる私たちが未来を拓いていくためにも大切なことだと強く思う今日この頃です。
